“人生の終わり”を意識する 限りある時間を大切にするために

私らしく生きる

「生まれた人は、必ずいつか死を迎える」そのことを、私たちは頭ではわかっていても、日々の暮らしの中ではあまり意識しません。50歳という節目を迎え“自分の人生の終わり”をどう迎えるか少しだけ考えるようになりました——悲しいことではなく、大切なライフイベントとして「人生の終わり」を自分事として考え、限りある時間を見つめてみませんか?


誰にでも必ず訪れる「終わり」

人生には必ず「終わり」があります。

  
これは避けられない現実であり、誰もが等しく経験することです。

 

100%平等に訪れます。

  
私は40代の初めに幼馴染を突然の病で亡くし、その時は「まさかこんなに早く…」と深いショックを受けました。

  
当時はなかなか現実を受け入れられず、無力感に押しつぶされそうになったのを今でも覚えています。

  

50代を迎えた今、捉え方がだんだん変わってきました。

  

今はいつ何があっても不思議ではないと感じています。

   
親せきや知人の訃報に触れる機会も徐々に増え、まだ少し遠いものの、死は前よりも身近に感じようなってきました。

 

余命は「未知」だからこそ怖い

「いつかは死ぬ」とわかっていても、具体的な「時」はわかりません。

 
その「未知さ」が私たちを不安にさせ、時には過剰な心配や恐怖を生むのではないかとも思います。
 

一度だけ「死」を間近に感じたことがあります。

 

30代の頃、今の夫(当時はまだ彼氏)と山登りに行き、長野県白馬の大雪渓を降りているときのことです。

 

簡易的なアイゼンしかつけていなかった私は足を滑らせ、ずるずると雪渓を滑り落ち、クレバス(雪渓に形成される割れ目)に転落しまったのです。

 

最初は何が起こったのかわかりませんでした。

  

ただ、背負っていたザック(リュックサック)がクッションとなり、落ちた穴の壁に引っかかりました。

 

光がわずかに入る暗い穴の中、両足を壁に最大限踏ん張って体を支えました。

 

もしもこの足を離してしまったら…。

 

必死に足を突っ張って落ちていくのをこらえましたが、深さがわかりません。

 

もしそのまま落ちたら、どこまで流されていくかもわかりません。

 

恐怖でした。

 

しばらくすると、ちょうど転落した様子を見ていた山の紳士が駆け付け、穴から引っ張り上げてくれました。

 

膝がガクガクして震えが止まりませんでした。

 

そのあとは恐怖のあまり半泣きになりながら、震える足で長い長い残りの雪渓を下っていきました。

 

その時のすべての光景を今でも忘れません。

 

クレバスで両足を踏ん張って耐えていた時にとっさに思ったことは「お父さん、お母さん、ごめんなさい…!」でした。

 

なぜそのように思ったかはわかりません。

 

ただ、生死がかかった時に思い出すのはやはり家族なのだな、と妙に納得したものです。

 

いつ何時終わるかわからない人生、だけど、わからないからこそ「今」を大切に生きるしかないのだと気づきました。

  
過剰に怖がるよりも、毎日を出来るだけ楽しく、自分も周囲の人もいたわりながら過ごしたいと思うようになったきっかけです。

 

  

「今」を大切に生きる意味

終わりが「いつか来る」とわかっているからこそ、今の時間がいっそう貴重になります。

  
例えば、私は日々の生活の中で家族との会話や友人との時間をより大切に感じるようになりました。

 
「あと何年あるか」ではなく、

 

「この瞬間をどう生きるか」の積み重ねなのではないかと思います。

  

人生は有限だからこそ、好きなことや興味のあることは後回しにせず、出来る限り挑戦する勇気も湧いてきました。

 
年齢を言い訳にせず、新しいことに飛び込んでみることで、多くの出会いとかけがえのない経験がありました。

  

冒頭に記した幼なじみは40代前半で病没しました。

  

最後まで私を気遣い、病気のことを隠し、会うことは叶いませんでした。

  

手紙やメールには「病院に行って治療しているし、楽しくお酒も飲めているから大丈夫」と繰り返し書かれていました。

 

私はその言葉を信じ、いつか回復して「会おう」と言ってくれる日を心待ちにしていました。

 

「今後近くに行くから会えないかな」

「夫とも会ってほしいし」

  

と勇気を出してメールを送った彼女の誕生日、少し前に亡くなったという返信が旦那さんから来たのです。

  

どうしてもっと早く、無理しても会いに行かなかったのか、深く深く後悔しました。

 

でも、会わないという選択肢は、病を得てなお人のことを思いやれる彼女の深い優しさだったと今は受け止めています。

 

彼女の命日ではなく誕生日に、今も毎年おめでとうのメッセージを心の中で贈っています。

 

   

限りあるからこそ人生は愛しい

死を考えることは決して暗く重いことだけではありません。

  
むしろ「有限だからこそ、今を大切に」と思えることも多いのではないでしょうか。

   
恐れを感じるときはありますが、その分感謝や喜びの感情も増えました。

  
「いつ終わるかわからない」ことを少しだけ意識して、限られた時間をどう使うかを自分で選ぶことが、50代以降の人生を豊かにする鍵のひとつであると感じています。

   

例えば、自分の余命がはっきりしたとき、何をしたいか、誰に何を伝えたいかをふとした瞬間に考えてみることにしています。

     

有限であることで、人生の一瞬一瞬はかけがえがない。
   

今を大切に、ゆっくり確かに歩んでいきましょう。

  

  

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